不登校って言葉、無くしませんか?

不登校って言葉、無くしませんか?

不登校って言葉にどんなイメージがありますか?

私は『学校に行く能力がない』というイメージがあります。

今から20年〜30年前に学生だった私は、クラスに不登校の子がいました。

なんとなく、不登校になった子に問題があるという認識で見ていました。学校に馴染めないんだな。。と。
学校側に問題がある、とは思っていませんでした。

私自身、どんな学生だったかというと、校則はしっかり守るこどもで、むしろ校則違反している人が不思議でなりませんでした。

先生に見つかれば呼び出されて叱られるのに、なんでわざわざ違反をするんだろう?
叱られるのをわかってて違反する人の気持ちが理解できませんでした。

今思えば、学校に支配された思考だったなと思います。
だから、不登校の人に対しても、馴染めないなにか問題がその人の中にあるんだなぁ。と思っていました。

でも、現在の私は母になり子どもをもつようになりました。そして、子どもを幼稚園という学校に通わせるようになりました。

子どもが幼稚園に通うようになって1年たった頃、不登校になりました。
私が。

私がどうしてもこどもを幼稚園に連れていけなくなったのです。

幼稚園に対して、信用ができなくなった出来事があり、それ以来まったく幼稚園へ行かなくなり、退園しました。

不登校について思うのは、『学校に行けない(能力)』ではなく、『学校に行かない(選択)』ではないかと思うのです。

以前、不登校の子達のドキュメント番組を見ていたとき、こんなフレーズが出てきました。

『不登校になる子は自身の危機管理能力が高い』

これ以上、学校に通い続けたら自分の心が殺されてしまう、という危険を察知して、学校に行かなくなるのだと。

私自身も同じでした。
幼稚園の先生に会うことに対する拒絶反応は、自分でも抑えられず、苦しかった。

泣きながら電話で相談した相手に『辛いなら行かなくて良いよ』と言われて、とてもとても安心しました。

学校に行けない。

でも、その『行けない』理由を突き詰めたら、結局のところ意思を持って『行かない』という選択をしてるのではないかと思うのです。

学校に行かないことを『不登校』と言いますが、昔からの変なイメージがついたままで、不登校になった人に対して能力不足を連想させる気がするのは私だけでしょうか。

不登校という言葉は無くなって良いと思います。

そもそも学校って毎日行かなくては行けないんでしょうか?

もっと言うと、すべての授業に出ないと行けないんでしょうか?

全教科の合格点を取ることより、一教科だけでも突出して優れているものがあれば万々歳じゃないかと思うのです。

学校に行かない選択をしてることを特別視せず、単純に『休んでる』『自由に選択している』と認識してほしいのです。

あの子、最近学校に来てないね。
不登校になったみたいだね。

の会話を、

あの子、最近学校に来てないね。

しばらく休んでるんじゃない?
忙しいんじゃない?
違うところで勉強してるんじゃない?

こんな感じで、学校以外にも選択肢がある日常が当たり前になったら良いなぁと思うのです。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA