母とは
「母」を手持ちの辞書で調べると「母親。子どもをもつ女」とある。
以上、それだけです。
なんと、「母」とは、「子どもをもつ女」であり、それ以上もそれ以下もないのでした。
なのに、「母とは」で苦しむ人が多い。
私もその一人。
「母とは、こうあるべき」がなぜか無意識下にあるように思う。
だいたい、今までの「私」が、子どもをもつようになったからといって、突然違う「何者か」にはなれない。
子どもの成長と同時進行で、「子どもをもつ女」ってこんな感じか~とわかってくるものなのでは。
「子どもと一緒に過ごせない」
「子どもと一緒に過ごせない」というあるお母さんがいた。
一緒に過ごしていても、家事をしたくなるので、その間子どもたちはユーチューブを見ている。それが良くないと思うが、野放しで子どもと過ごすとイライラがつのって無理だと言っていた。
私は子どもが学校に行かず家にいるので、ほとんどの時間を一緒に過ごしている。
苦だと思うことはほとんどない。
この状況に、順応したんだと思っている。
かといって、子どもを叱ったりイライラしないのかといえば、思いっきりしている。
ひどい言葉を浴びせてしまい、冷静になったときに謝罪することもしょっちゅうです。
でも、この生活が苦かと聞かれれば、全然苦じゃない。
「子どもと過ごす」ハードな設定
一緒に過ごせないといっていたお母さんの話をしばらく考えてみて思ったこと。
そのお母さんは、「子どもと一緒に過ごす」という設定がハードなのではないかと思う。
子どもと過ごすこと自体は、できるはず。だって一緒に暮らしているんだから、物理的には一緒に過ごしている。
ただ、その過ごし方に「こうあるべき」と思っているのではないかな。
子どもをユーチューブではなく外遊びに連れて行ってあげるほうが子どもにとっていいはず。ケンカしだしても、イライラせずに見守っていないといけない。怒らないようにしなければならない。
などなど、子どもに良い影響を与えられる母でありたいのに、そうあれない(と思っている)ことに苦しんでいるのではないかと思う。
その気持ちわかります。
しかし、もし、その理想的な母を今日一日やってっと言われれば、やれると思います。例えば、できたら100万円あげるって言われたら、どんなにイライラすることが起きても、もう絶対にやりとげると思います。100万円!
なので、やれるかやれないかの能力として見るならば、私たちはやれる能力を持っている。
なので、まずは、「私はできない」と決めつけた枠をはずして、「実は私はできる」と諦めましょ。
そして、「できるけど、やらないのはなぜ?」と問いかけてみて。
「こうありたい!」と思うときに、苦しくなるのはなんで?
ほんとうに「こうありたい!」と思っていたら、ワクワクどきどきするでしょ。
でも、「こうありたい(でもそうなれない私ってダメは母)」は、苦しさしかない。
苦しさを感じるってことは、本当にそうありたいと思っていないのでは?と思うのですが、どうでしょうか?
私も、優しそうなお母さんを見ると、「子どもに怒ったりする?」って思います。でも、聞いてみるとみなさん「怒りますよ~」と仰っている。
喜怒哀楽って、自然の真理ですよね。
真理を無くそうとするのは不可能です。
自然の真理を無くそうと思うってことは、重力を無くそうって思うのと一緒じゃない?
「子どもに良い影響を与えられ、どんなことにもイライラせず一緒に過ごせるお母さん」を本当にしたいでしょうか?
私は、無理がありすぎて、苦しそうって思っちゃう。
母とは、子をもつ女でしかないのだから、「母とはこうあるべき」なんて本当はないのに、あれこれとくっつけているから苦しいんじゃないでしょうか。
「私の好み」で子どもと過ごす
子どもとどう過ごしたいかは、好みでいいんじゃないでしょうか。
私が、子どもが学校に行かず家にいることが苦痛じゃないのは、好みに過ごしているからです。
学校に行かないし、家でも時間割を作るようなホームスクールもしていないので、朝はゆっくりすごしています。
「早く起きて!」「ごはんさっさと食べて!」「忘れ物ない!?」
というドタバタもなく、毎日平和です。
ゆっくり過ごしたい私には、これが好みであります。
でも、人によっては、ひえ~~って思う人もいると思います。
もしかしたら、多くの人にドン引きされるのかも。
でもねぇ、誰かに褒めてもらうための人生じゃないし。
母とは「子をもつ女」
以上です♡
Z会プログラミング