数年前、テレビで岩野響さんの特集を見たことがあります。
15歳でコーヒー屋さんをオープンしたということで、どういうことなんだろうと興味津々でした。
テレビに映る響さんの姿は穏やかで、おしゃれでした。
この本を手にしたとき、そんなことを思い出しました。
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』の中で心に残ったところの引用と感想です。
「育てる」より「サポート」でいい p47
響さんのことでお母さまが相談した脳神経外科の先生の言葉です。
「人間が人間を育てるなんて、おこがましい。生命を教育しようなんて思うことが間違っていて、サポートでいいのよ。響さんは、響さんで完成されていてすばらしいわけだから、それを、あなた流に教育しよう、育てようとしちゃうから、お母さんもこんがらがって悩んでしまう。
響さんは響さんでいいんだから!お母さんは、響さんができないことをサポートすればいいの」
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』
おこがましいか~。そうかもな。
私自身が成長段階にあって、失敗ばかりなのに、親になったから教育者になるって、いきなり私が私じゃない誰かになるみたいで無理があったんだ。
産んで育てていく中で、子どもってこんな感じなんだって同時進行で学んでいるのに。
子どもの教育なんて今までしたことがない。でもサポートなら多少なり今までの人生で何度となく経験してきたこと。家のお手伝いとか、写真を撮りましょうかって声をかけたりとか。
そんなことでいいんだよな。だって、子どもは子どものままで完成されているんだもの。私だって、私のままで完成されている。失敗するけど成長もする、いや、成長せずにそのままでいる、なんだっていい、ここに存在していることが完成された私ってことじゃない?
「人間はいわば神の創造物。私たち医者だって、もう何千年も研究しているのに、わからないことはたくさんあるの。お母さんは子どもをわかって教育しようとするから変なことになる。あなたが教わってきた教育と、響さんに必要な教育は、また違うでしょう?」
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』
私の子ども時代は、なるべく良い成績を残したいと考えていて、宿題をまったくしないなんてことはしなかった。というよりできなかった。怖くて。宿題を全くせずに登校したらどうなるんだろう?先生からも親からもすごく怒られるかも。そう思うと、サボることとか絶対できなかった。
でも、我が子は、宿題はやらないと決め、運動会もやりたい競技だけ出る、といった具合で、私の子ども時代とは真逆な感性で生きており、いつも驚かされる。しかし、それを否定的には見ておらず、息子は本質的に生きているんだなと納得している
そんな調子なので、私が教わってきた教育と、彼に必要な教育は違うということははっきりとわかる。じゃあ、どんな教育が必要なのか、それははっきりとはわからない。わからないからなおさら教育する立場として子どもに接するより、必要なときにサポートをするという姿勢でいたほうが、間違いが少ないだろうと思っている。
家族という小さな社会を回していく p164
もしかしたら、この研究所兼お店をオープンしたことが、響にとっていちばんいい選択ではないかもしれません。いまはこれが合っているけれど、これからはまた別の生き方があるかもしれない。あえてそう思うようにしています。(中略)
これじゃいけないと思うとしんどくなります。これだと決めた瞬間に、安心もあるけれど、縛られることになってしまうから。
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』
この考え方はすごいなと思った。響さんのお店は大繁盛ですぐに売り切れるという人気店でありながらも、でも別に合う生き方があるかもしれないと思っている。
不登校で宿題もしないと決めた子どもを持つ私にとって、安心に飛びつきたくなる気持ちがいつもある。
でも、この本を読んでみてわかったこと。
息子が生きている。元気でいる。笑顔の多い毎日を過ごしている。それが私の安心かなって思う。息子が大きくなってきたらまた違うだろうなとは思うけれど、それはまた同時進行で私も学んでいこうと思う。
できること探しを積み重ねていったその先に p186
できないことより、できること。
そして、できることから、響にしかできないことへ。
できること探しを積み重ねていったその先に、響にしかできないことが見えてくるのではないかという願いを込めたのです。(中略)
数学が苦手だから、国語でカバーできるというお子さんならいいかもしれませんが、響の場合は学校の中で別のいいところを探すのが難しかった。そこで、できないものの代わりは、学習以外のものでいいと思ったのです。(中略)
だから、学校の外や家の中の仕事で、響の「できること」を見つけただけです。
『15歳のコーヒー屋さん 発達障害のぼくができることからぼくにしかできないことへ』
その人だからできること。そこに目を向けることが大切。でも、いつも目につくのはできないこと。片付けできていない。読んだ本はそのまま放置されている。朝起きたら布団たたんでって毎回言わないと動かない。子どもに声をかけることといったらそんなことばかり。でも、できていることだってあるはず。
我が子の場合はどうだろう。
宿題はしないけれど、レゴに高い集中力を持って遊ぶことができる。
字は書くのが苦手だけど、本を読むのは得意。
うーん、ぱっと思いつくのはこれくらいってことは、できることに注目して見たことが実はほとんどなかったんだな。
意識して見ないと、当たり前と思って見逃してしまう。
子どもたちのできることに気が付く度にスマホにメモしていく習慣をつけてみるのもいいかもしれないな。
発達障害のある女の子が学業トップアワード
最後に、発達障害って何なんだろう。
私が小学生の頃から支援級クラスがあって、そのクラスの子と交流する機会はほとんどなかった。だから、接し方がよくわからない、ハレものに触らないような感覚でいた。
でも、マレーシアでは、発達障害があるとされる子どもも同じ教室で過ごし、そちらの方がお互い良い影響をもらえるよねっていう例は多々あるみたいです。最近では、マレーシアの小学校で学業トップアワードをもらったダウン症の女の子がいるそうです。
野本響子さんのボイシーでは発達障害のある子どもの教育の話をよくされています。そこで野本さんが仰られている通り、社会にでたらいろんな人と関わることが増えるのに、学校でクラスを分けると、お互いの間に隔たりを作ることになるんじゃないかなって思いました。
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