私がこの本と出会ったのは、小学校1年生の息子が宿題をやりたがらないことについて悩んでいた時でした。
息子は小学生になり、今までになかったルールに戸惑っていました。
目次
宿題は親子関係を悪くする
宿題もその一つで、突然、学校から「やりなさい」と渡され、提出を求められることが、息子にとっては、『勝手に決められたこと』と映っていました。
息子は同意なしに勝手に決められることが大嫌いです。
ですから、息子は宿題をやりたがりませんでした。
私が「宿題をやろう」と声をかけて、(「宿題を終わらせてから遊びに行くよ」などの条件付きで)渋々やるという状態でした。
そんな息子と私が宿題をしている時の空気は最悪です。
「こうじゃない、ああじゃない」とついつい口に出す私と、それを受けだんだん不機嫌になる息子。
我が家にとって、宿題とは「親子関係を悪くするもの」となっていました。
遊んでいる時の生き生きとしている息子と、宿題を目の前に生気を失ったようにしている息子。
このままいくと、宿題どころか学ぶことそのものも嫌いになりそうな気がしてきました。そもそも、何かを学ぶとき、「好き」「楽しい」という気持ちがないと、身につかないと思います。
ですから、こんな生気を失った表情で宿題をしても、意味がないどころかマイナスなんじゃないかと思うようになりました。
高校認定試験で、学校へ行かなくても学力が認められる
『小さな天才の育て方・育ち方 小・中・高に通わず大学へ行った話』は、本のタイトル通り、学校へ通わずに17歳の時に初めて勉強をし、半年で高校認定試験さらに大学受験を合格し、大学へ行った話が書かれています。
高校認定試験は、文部科学省が定めた、高校を卒業していない人も高校卒業と同程度の学力があると認められる国家試験です。
高認試験はとにかく簡単だそうです。定員もなく、どんどん合格させてくれる良心的な試験のようです。
正直、高認試験の存在は、親としてホッとしました。
まったく学校へ行かなくても、学力が認められる制度があれば、将来やりたいことができたときに可能性が狭まられずに済むんだと、安心しました。
『小さな天才の育て方・育ち方 小・中・高に通わず大学へ行った話』は、お母さんの吉田晃子さんと娘さんの星山海琳さん二人で書かれています。
子どもの頃から「やりたいことをやってきた」星山海琳さん
娘さんの星山海琳さんは、一貫して「やりたいことをやる」姿勢で育ってきたこと、その感性で「学ぶとは?」「学校とは?」「親とは?」などについて書かれています。
子どの気持ちを教えてもらえる貴重な話ばかりです。
親に抑圧されることがなかったから、反抗期もなかったという話など、あぁ、そうか~そうだよな~と思うことがたくさんあります。
【子どもが感じることはいつも正しい P50】
この章に、本質的だなと思う文があります。
勉強っていうのは、そのとき自分自身が求めたからするもので、だからこそ自分自身のためになるし、豊かさや、学ぶことの美しさみたいなものが輝く。子どもはそれをはっきり感じとっているから、「どうして勉強しないといけないのか」なんて疑問が生まれてきます。子どもが感じることに間違いはないのです、きっといつでも。
これを宿題に置き換えてみても、その通りだと思いました。
息子は、今のタイミングで宿題は求めていないよね。
宿題は1ミリもしないけど、遊びは忙しそうにしています。
ユーチューブやゲーム、漫画に夢中です。ええ、ほんとに遊びばっかりです。
ですが、息子は私の知らないことを知っていたり(白アリはアリじゃなくてゴキブリの仲間とか)、習っていない漢字を読めたり(漫画の送り仮名で覚えたらしい)、遊びの中に学びってちりばめられているんですよね。
新しい知識を得るとか、漢字が読めるとかのように(親が安心するような)、学びにつながったことが表に見えてこないことも多々あると思います。でも、何を学んでいるのかわからない状態でも、それで良いんだよ、ってこの本を読んでいると思えてきます。
なぜユーチューブばっかり見たがるのか
以前、息子に「なぜそんなにユーチューブが好きなのか」聞いたことがあります。
息子は「ユーチューブは知らないことが知れるから」と言っていました。
そうなんだね。「知らないことを知る面白さ」を感じ取っているんだ。そのことに嬉しくなりました。
子どもを徹底的に信頼してきた吉田晃子さん
お母さんの吉田晃子さんは、母親として、子どもにたいしてどういう眼差しで見ていたかについて書かれています。
【自分がされたらいやならことをしなかっただけ p153】
この章では、5つのしないことと1つのやることが書かれています。
「条件を付けない、怒らない、命令しない、脅かさない、相手の問題に口をはさまない、約束は守る」です。
どれも言うは易し、やるは超ムズカシです。でも、これを長年やってこられたというのが衝撃でした。
条件をつけない
「××をしたら〇〇をしてあげる」の類が、わたしはめちゃくちゃイヤでした。あるがままの自分では価値がないんだと植え付けられていき、自分で自分をいじめて苦しみを生む大人になっていきます。自分を信頼できません。
条件づけは、日常の暮らしのなかではびこっています。「手を洗ってきたらね」「お片付けが済んだらね」「宿題が終わったらね」などもそうです。
怒らない
なんと、どこを探してもこどもを怒る理由が見つからなかったそうです。衝撃なんですけど~~!
私なんて怒らない日はないというのに!
前述の条件を付けられた子というのは「あるべき子ども」だとおもうのです。わたし自身「あるべき子ども」にさせられて、それがいやだったから、数々の強要、振りかざす権威、指示などを排除したというわけです。排除して現れたのは、怖れを抱かない「あるがままの子ども」でした。
命令しない
「早くしなさい!」「勉強しなさい!」「やめなさい!」。どうして、命令するのか、ふしぎでなりません。自分より歳が下であっても、子どもであっても、人間として、相手に失礼です。自分にも失礼です。たとえば自由な発想を否定する「言うことをききなさい」という命令は、大人になっても自分で考えられない人に育ちます。「言うことをききなさい」には、わたしはあなたを信じていませんというメッセージが隠れています。「泣くな!」は感情を否定する言葉です。親の恐怖心が強いからだとおもいますが、感情を否定される経験は、生命の基盤のダメージにつながります。
脅さない
子どもがそのとき興味をもったなにか(学び)、そのなかについて、なにかを学ぼうとした(学んでいた)力を奪った罪の重大さに、親は気づきません。大人になるにつれ、好奇心が弱くなる原因の一つだと思います。
私のよくやっている脅しは「おもちゃを片付けないなら捨てる」というものです。
足の踏み場がないほどのおもちゃであふれた部屋を見る度、イライラしていました。
「おもちゃを大事にしてよ、片付けないのは大事にしていないことじゃん。大事にしていないなら手放すよ」と。
子どもの言い分は、「まだ使っている」です。
次の新しい遊びへどんどんうつり、残されたおもちゃたちをまだ使っている状態に見えなかった私は、さらに怒り狂って「捨てる!」を連呼していました。
「ねぇねぇ、まだ使ってるんだって。
私の理解できない、まだ使ってる状態らしいよ。
私にはそう見えなくても、子どもがそう言うならそうなんじゃない?
片付けられた部屋が好きなら、私がそうすれば良いんじゃない?
まず私の領域(台所やクローゼットなど)を片付けないと、子どもも片付けの良さがわからないんじゃない?」
あの時の私に、そう語る今の私が現れました。
本音は片付けられる子になって欲しいですが、それが学びの最中なら邪魔をしてはいけない。それに、片付いた部屋が好きかどうかはその人の自由でもある。ゴミ屋敷は困るけど。
子どもの「したいこと」を尊重しようと思えると(片付けずに遊びたいという「したいこと」も含めて)、じゃあお互いが楽しい気持ちでいられるためにはどうしたらいいかな、とあれやこれやと考えるのが楽しくなってきました。
相手の問題に口をはさまない
寝る時間、学校、勉強、宿題、部屋の散らかり、髪型、友だち、他、たくさん。
日常茶飯事のささいな出来事。考え方、時間の使い方、お金の使い方、バイト、就職、進学、門限、外泊、旅など、単なる価値観の相違には干渉しません。
すごくないですか!?
ぜーーーーーんぶ、口を出したい案件ですけど。
うちは特に「宿題をしない」というチャレンジ(私にとっては)をしていて、それを先生にどう伝えようかって親の私が考えあぐねていますが、このことも子どもの問題、こどもにお任せ~ってことですよね。
大丈夫かな?先生に怒られて傷つかないかな?
そんな心配があふれてきます。
ただ、晃子さんの言う「日常茶飯事のささいな出来事」(私にはとてもそう思えないけれど)に口を出さずにいられたら、楽だろうな~と思います。
約束は守る
約束を守ってくれる経験がつづくと、親を、人を、自分を、信じる力が育ちます。「絵本読んで~」と言われて、「あとでね」と適当に返事をした無神経な約束(約束をしたことさえ覚えていない)は、自分は愛される価値がないんだ、と教えます。
あぁ、私は子どもの約束を軽んじていることに気づかされました。
なんで、適当にあしらえてしまうんだろう。
これが対大人なら?対友達なら?
「子どもは何をされても親を愛してくれる」と甘えているんだと気づかされました。
自分のこども時代をふりかえっても、決してそんなことはないのに。(私は30代まで反抗期がありました^^;)
【親の恐怖はどこからくるのか p157】
親は、子どものありのままを、ありのままには受け止めません。常にものさしをあてて見ます。自分(親)にとって「いいこと」なら褒め、「わるいこと」の言動には、叱ったり説教したりします。あくまで評価基準は、親の感情や都合や価値観によって判断されるのです。
(中略)
とにかく自分の枠にはめないと気がすまないし、許せない。親が善しと望むバラの型から少しでもはみでると、不満が出て、イライラして、不安で焦ってしまうのです。
そして親は、その不安を自分のなかに留めておけばいいものを、干渉と評価、さらには脅しまでかけて、自分の不安を少しでも軽くしたくて、その不安を子どもに押し付け担がせてしまいます。
子どもと暮らすようになって、次々と自分のブラックな部分が暴き出されていると感じます。他人をコントロールしたがる欲深さ、私の心の狭さ、思いやりのなさ、余裕のなさ。
なぜそうしたくなるんだろう?私はなにを怖がっているんだろう?
きっと、子どもがいるからこんな短気な私になっているのではなく、もともとその素質があって、子どもがいなかった時はそれらが表に出る機会が少なかっただけ。
子どもとの暮らしで、本来の自分を見つめざるを得ない、いえ、見つめられるチャンスをもらっている。そう思えるようになりました。
【親はなにを排除すればいいのか p158】
子ども自身が主人公となって、自由に、自分の好きなように、自分が満足する、自分の人生を、自分で創っていくために、親はなにを排除すればいいのか?それは干渉です。
「風邪ひくよ~」や、「おかわりは?」なども干渉であると述べられています。
なんと!そんなこと、超日常的にやっています。
でも、確かに、そんなことは当事者の事情であって、どうしたいかは当事者が決めること。
当事者でないわたしが、子ども自身の領域に入り込み、ああしろ、こうしろと意見を述べたり、指示をしてしまう干渉は、本人が考えなければならないこと、本人が判断し決断しなければならないこと、それらの能力を奪い去り、学びのチャンスを妨害します。
子どもたちから求められない限りは、教えない、奪わない、求めない、に徹してきました。たくさん、たくさん、ミスを犯しながら。
『小さな天才の育て方・育ち方 小・中・高に通わず大学へ行った話』を読み終わると、肩の荷が下りたような、安心した気持ちになりました。
息子は大丈夫、だって今、笑顔だから。
学校へ行かなくても、宿題しなくても、遊んでばかりでも、大丈夫。そう思えました。
【子どもたちからなにを学べるか p167】
子育てがうまくいく方法なんてないと思います。あるとすればそれは子育ちをじゃましない。ただそれだけじゃないでしょうか。子どもをよくしようとしないこと。これに尽きると思います。
子どもの伸びたい方へ枝を伸ばすのを邪魔しない。
たったそれだけと思えば、気が楽です。
たったそれだけのために、排除すべきことは今の私にはたくさんあります。
変わるべきことはたくさん。でも、気が楽になりました。
私も成長していける。
こどものおかげで、知らなかった私と出会えた、成長するチャンスをもらえた。
そんな安心感に包まれて干渉を減らしたことで、本日の私は、各段に子どもに怒る回数が減りました!
今日、息子に言われました。
「今日の母ちゃん、なんかいいね」
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