『家で死のう』
タイトル通り『死』についての本です。
約2000人の患者さんを自宅で看取られた緩和ケアの専門医が、死へのプロセスや、看取った患者さんのエピソード、穏やかに死ぬための訓練についても書かれています。
死なんて恐ろしい・・・と思うかもしれないけれど、読んでみると安心感を覚えます。
私たちは、死というゴールに向かって生きています。
死はいずれ訪れる。
どのように死へ向かって行くのか。それがわからないから怖いのであって、わかってしまえば怖さも薄れます。
目次
死そのものは本来、苦しいものではない。
病院で治療すると、体力の限界まで生きさせられることにより苦しみが出てくる(苦しい治療もがんばれと言われ続けること、胃ろうや寝たきり、認知症など)けれど、緩和ケアのサポートのもと、病気とうまく付き合っていけば、今までの治療をやめたことで元気になったり、入院より長く生きられる可能性もあるし、苦しまずに最後を迎えられる。
病気による痛みは医療用麻薬でコントロールできる。
病気による痛みはあるが、それは医療用麻薬で調整できるため、上手に使えば痛みに苦しむことなく最後を迎えられる。(詳しくは本書「p199医療用麻薬を上手に使う」にて。)
ピンピンコロリも夢じゃない。
家で亡くなる方の典型的なパターンは、容体が急変することはなく、だんだん食べられなくなり、歩けなくなり、眠る時間が長くなり、枯れるように死んでいく。枯れるように死んでいけば、死ぬことは苦しいことじゃない。(詳しくは本書「p72 穏やかな死で起こる具体的プロセス」)
「おめでとう」と言われる死に方
死に向かっていることを受け入れて、残された人生を家族と過ごしたり、趣味に興じたり、最後まで自分らしく生きた患者さんのエピソードが複数ある。
その中で、理想的だなあと思うのが「おめでとう」と思われて最後を迎えること。
最期までかっこよく生き抜いた患者さん、それを全力で支える家族の姿は、いつも私に深い感動を与えてくれます。生まれてきたとき「おめでとう」と迎えるのなら、亡くなるときも「おめでとう」と送ってあげたい。心からそう思います。
p37 家族に愛されながらウルトラマンになった少年
常々、死=悪なのか?と疑問を持っていました。私たちは必ず死ぬ。死に向かって生きている。そのゴールが悪のように言われることに違和感がありました。
「かわいそう」と思われながら死ぬのではなく、「楽しんでたね、良い人生だったね」と思われて死にたい。いや、他者にそう思われなくても自分自身がそう思って死にたい。
『家で死のう』は、「良く生き、良く死ぬ」選択が私たちにあると教えてくれます。
医師は人生の専門医ではない。
医師ができることは「統計学的に心臓が動き続ける可能性が高い治療」を提供することです。
p113 医師は専門分野しかわからない
医師の仕事は、「死なせないこと」「心臓を動かし続けること」であって、患者がつらくないか、幸せを感じられているかなどは専門外。
医療は「利用する」というスタンスが良い。
自分の体のことは、最終的には自分で決めること。医師は聖職者ではない。自分の人生を医師に丸投げすべきではない。どのように生きたいかは自分にしかわからない。
それで思い出したのが、私が妊婦だった頃の話です。
お腹が張っていたので張り止めの薬を処方すると医師に言われたことがありました。しかし、その薬はアメリカやEUでは使用禁止されているもので、日本ではなぜか当たり前に使われていました。
私は、その薬に不信感があったので、飲みたくない旨を話すと医師は怒りだしました。「医師の言うことを聞かない患者はあなたが初めてです」と言われました。結果としては、飲まずに無事出産できました。
大事なことは、自分がどう生きたいか。自分の人生の主導権は自分にある。たとえ医師とケンカすることになっても。私はそう思います。
「死に方」は「生き方」
今、私は元気と言える状態にあります。
この精神的フラットな状態で、『家で死のう』を読めて良かったです。
いざ、自分が死を意識する場面になると、精神的に不安定になるだろうから、この本を読めていたかわからない。
どのように生きたいかはどのように死にたいかも含まれている。
それを考えるきっかけをくれました。
「緩和ケア」という選択肢があることを知れたことは、これからの人生に光をさしてくれた。
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